介助付き演奏

八坂健二|1965-

溝上悠真による「介助付き演奏」|作品解説

右足が不自由でダンパーペダルが踏めなかった八坂自身の身体に由来する一連の作品。既存の古典的作品をできるだけ楽譜に忠実に(指番号の遵守など)再現しつつ、演奏者として想定されていない身体をもつ主演奏者とその介助者で、いわば二人羽織的に演奏することによって、作品およびその演奏-聴取経験を異化する。
八坂の身体障害に由来する作品群だが、展開は多様な文脈のもと行われた。例えば、女性が手の小ささから演奏可能な曲を制限されやすい事態へのフェミニスト的批判として、女性ピアニストによるリサイタルのなかで、本シリーズの一作が、プログラムには原曲の演奏とのみ記載しつつゲリラ的に演奏されたことがある。
しかし、あくまで楽譜の忠実な再現を旨とする本シリーズは、八坂の転回をもたらす皮肉な事態を引き起こすこととなった。現代音楽を特集するラジオ番組で本シリーズの一作が取り上げられ、八坂自身らによる演奏が録音・放送された際、繰り返しの上演による熟達から、その録音はほとんど「ふつうの」演奏と聞き分けがつかないものになっていた。(呼吸音や衣擦れなど演奏者らのノイズを強調したバージョンも八坂の発案から録音されたようだが、放送には採用されず、データも残っていない。)結果として、その録音は一方でたんなる原曲の演奏音源として複数のラジオ番組で使用されつつ、他方では「障害者による完璧な演奏」、つまり美談的な風味付けとしてのみ「障害」に目が向けられる音源また「健常者並み障害者」という理想を具現化した音源として、かえって健常者中心主義を強化する目的で利用されることとなった。
これから八坂が学んだのは、単一の楽譜がもたらす爆発的に多数の演奏がしかし単一の結果へと収束してゆく事態や、そこで「流通」の果たす致命的な役割、ラベルとして動員されたり剥がされたりする名や属性、疎外され続ける身体、といった事柄である。